花
white flower
彼女と別れたのは、もう五年も前のことになる。
仕事で知り合い、二年ほど付き合った。取引先の担当者だった。
先にさよならを切り出したのは、彼女の方だった。
「尾崎さん、…私たち、そろそろ終わりにしなきゃ」
彼女にそう言われれば、「そうだな…」と返すしかない。
俺にも彼女にも、お互い家族があった。ずっと続く関係だとは最初から思っていなかった。
いつもふたりで落ち合う、誰にも見つからない町外れの安居酒屋で俺たちは苦いビールを飲みながら短い別れ話をした。
「今、いくつだっけ」
「39。尾崎さんは?」
「俺は、ええと…51だよ」
「え、会ったときってまだ40代だったんだ(笑)」
月に一度か二度会うだけの関係。けっして心には踏み込まない。
俺たちは互いの年齢さえ意識していなかった。別れ話はあっさりしたものだった。
「うう、今夜は寒いな。代行で送るよ」
「ううん、今日はいい。ひとりで帰る」
「そうか。…じゃあな。元気で」
「ありがとう。楽しかった」
あれは、彼女と別れる半年ほど前だったろうか。
彼女が旦那とアジアのどこかの国を旅して来たと言って、小さな鉢植えを持ってきた。
「なんだこりゃ」
鉢には緑の棒のような茎がささっていた。
「白い綺麗な花が咲くの。なんか、この花いいなって思って見てたら、旦那がそばにいるのに尾崎さんのこと思い出しちゃって」
「買ってきたのかよ」
「ときどき水をあげるだけでいいんだって」
受け取ったはいいものの、さすがに家に持って帰るわけにはいかないので、俺はそれを仕事場の窓辺にずっと置いておいた。
なんという名前の植物かはわからない。言われたとおりにときどき水を与えたが、結局、花は咲かなかった。
先週、職場で取引先と会議をしていて、彼女が昨日亡くなったと聞かされた。
「…」
「…あの、どうされました? 大丈夫ですか?」
「あ、いや…」
「彼女、こちらの担当だったとき、尾崎さんにとてもお世話になったみたいで」
「あ、いや、こちらこそ…」
彼の話では、ずいぶん前から余命を宣告されていたらしい。
会議が終わってから、俺は窓辺に放置したままの、名もなき植物をじっと見つめた。
俺に、何かしてやれることはあっただろうか…。俺は何もしてやれなかった。彼女がそれを望んでいたかどうかもわからない。
花をつけないその植物が、なんだか彼女と重なって見えた。
俺はもちろん葬儀に参列しなかった。そのかわり遅くまで仕事をして、 日付が変わる頃、誰もいない職場にこっそりと酒を持ち込んだ。
献杯。彼女と一緒に人目を忍んで飲んだのと同じビールだ。
彼女は俺と付き合っていたときから病気だったのだろうか。あるいは別れてからだろうか。一度くらい、俺にまた会いたくなったりしただろうか。考えたところでどうしようもないのは分かっている。でも…。
「ありがとう。楽しかった」
そう言ってタクシーに乗り込んだ彼女の最後の笑顔が、何度も真っ暗な窓に浮かんだ。
もう、終わったことだ。彼女が終わらせてくれたことだ。
そう自分に言い聞かせるように区切りをつけて、ふと視線を落としたとき、俺は驚いて缶ビールを落としそうになった。
花が、咲いていたのだ。
白く、ぷっくりとした綺麗な花。そっと花びらに触れると、見た目よりも柔らかかった。彼女の冷たい頬を思い出す。
「俺たちのあの二年間って、何だったんだろうな」
口にすると、彼女と出会ってはじめて、熱いものが胸にこみ上げてきた。
放送日:2020年5月5日
出演:荒井和真 松岡未来 相木隆行
脚本:藤田雅史 演出:石附弘子
制作協力:演劇製作集団あんかー・わーくす