犬の名前
what's the name of our dog?
子どものできなかった私たち夫婦は、かわりに犬を溺愛していた。
「モモコ」という名前は夫と一緒につけた。家にやってきた日に、もらいものの桃を切って与えたら美味しそうに食べたので、なんとなく「モモコ」になったのだ。
可愛くて仕方なかった。その日から、私も夫も、モモコを愛した。
「おーい、モモコ、散歩いくぞ」
「待って、雨降りそうだからモモちゃんにこれ着せてあげて」
そのモモコが、去年の秋、老衰で死んでしまった。
ペットロスが原因で離婚した、なんて言ったら笑われてしまうかもしれない。でも、本当に私たちは離婚した。
私にとって夫は、夫である前に、モモコの父親だった。モモコが家にいないのなら、私には、夫と一緒にいる理由なんてなかった。
モモコの使っていたものを処分してから、私は家を出て、賃貸マンションに引っ越した。
モモコの死から半年が過ぎた春のある日、季節のものを買いにショッピングモールに行ったときのことだ。
偶然、ペットコーナーを通りかかかって、私は足をとめた。
ゲージの中に、まっすぐ私を見つめる、ミニチュアダックスフンドの子犬がいた。私は吸い寄せられるように近づいて、気づくと店員を呼び止めていた。
「あの、ごめんなさい、この子って…」
よく、ペットを失った悲しみを癒やせるのは新しいペットだけだという。確かにそうかもしれない。
でも、その子はもう売約済みだった。
それから数日、私はそのペットコーナーに通い詰めた。
いつ行っても、その子犬は私のことをじっと見つめた。モモコのことを思い出して、私の胸は締めつけられた。
けれど四日目、その子はゲージからいなくなっていた。
別れた夫から連絡があったのは、それから一週間くらいしてからのことだ。
「悪いんだけどさ、土地の名義ことで確認して欲しい書類があるんだ」
「とりあえず写真撮って送ってもらえる?」
「いや、直に見てもらいたいから、家に寄ってくれないか」
そう言われて、私は久しぶりに、長年暮らした家に向かった。
家の近所の景色は前と変わっていない。
家に向かう途中、モモコと一緒に散歩した思い出がよみがえり、私は胸が苦しくなった。
「入るわよー」
家のドアを開けて驚いた。
なんと、あのペットコーナーで見た子犬が、玄関にいたのだ。
「おう、久しぶり」
「この子って…」
「そこのショッピングモール行ったらさ、見つけちゃって…」
「売約済みって、あなただったのね」
「…お前も見つけたのか、この子の瞳が、なんか、モモコに似てる…って思ってさ」
「私もそう思ってた」
ゲージから出して抱き上げると、愛らしくなついてきた。
私は、はじめてモモコが家に来たときの気持ちを思い出した。
「なあ、一緒に育てないか」
「えっ…」
顔を上げると、彼は目に涙をためていた。
彼の想いが胸に広がった。そう、私の悲しみと同じように、この人もまた、ずっと悲しかったのだ。
「…この子の名前、どうする?」
放送日:2020年6月2日
出演:佐藤みき 荒井和真
脚本:藤田雅史 演出:石附弘子
制作協力:演劇製作集団あんかー・わーくす