写真
Film camera
二十代の最後の年に、趣味でやっていた写真のワークショップで知り合った人がいました。
六つ年上の、但馬さん。初対面のときから、なんかいいな、と思った人でした。私の方から誘って、ふたりで写真展を観に行ったり、何回かお酒を飲みに行ったりしました。
但馬さんとは、30歳になる前のほんの数ヶ月だけ、付き合いました。別れた理由は、彼には奥さんと子どもがいたから。お互い、本気になる前に別れなくちゃいけない、続いてはいけない恋でした。
彼はよく、私の撮る写真を褒めてくれました。
私に、趣味レベルでいいから写真をずっと撮り続けた方がいいと言ってくれました。そんなことを言ってくれる人は但馬さんだけでした。
はじめて但馬さんが私の部屋に来たとき、彼はカメラを一台、借してくれました。学生時代に買ったという、かなり昔の貴重なフィルムカメラです。私の作風にきっと合うからというのが理由でした。
「えーと、これピントはどこで…あ、これか」
「あ、撮っちゃった。あはは」
何枚か写真を撮って、でもそれきりでした。私は仕事が忙しくて、正直なところ、趣味に使う時間なんてほとんどなかったのです。
別れるとき、私は彼にさよならを告げませんでした。
顔を見て未練を残したくなかったから、メールで「もう会わないことにします」と伝えただけ。彼からも「わかった」と返信が来て、それきり。
私は、但馬さんと別れてから、新しい恋人を作っては別れる、ということを何度か繰り返しました。引越も二回しました。そのうちいい人が見つかったら結婚しようと思い続けて、気づけば、あっという間に35歳を過ぎていました。
ある日、何気なくテレビのローカルニュースを見ていたら、交通事故の映像が流れてきました。私は息をのみました。テロップで出た事故の被害者が、但馬さんだったのです。名前の横に、死亡、の二文字が並んでいました。
ほんの数ヶ月、付き合っただけの但馬さん。彼のことが好きだった、その気持ちははっきりと覚えているのに、いくら思い出そうとしても、彼の顔も、声も、なんだかうまく思い出せません。私たちは付き合った証拠を残してはいけないふたりでした。だから一緒に撮った写真なんて一枚もありません。
ハッとして、私はクローゼットの引き出しを開けました。
そこには、但馬さんに借りたままのあのカメラが入っていました。中のフィルムも当時のままです。
返しそびれたカメラ。それだけが、私たちの関係を証明する唯一の証拠でした。
次の日、フィルムを現像に出しました。
最初の一枚は、カメラを貸りたときに試し撮りをしたものでした。そこには、昔住んでいた懐かしい部屋と、但馬さんのぼやけた笑顔が写っていました。
彼は、どんな気持ちで私と付き合っていたんだろう。そんなことをふと考えます。彼にとって、私とのことは遊びだと思っていました。でも写真の中の但馬さんのぼやけた笑顔は、本当に楽しそうな、嬉しそうな、心底、幸せそうな顔なのです。
もしかしたら但馬さん、本当に私のことが好きだったのかも…。
そう思ったら、言葉にできない、たまらない気持ちで、胸がいっぱいになりました。
このカメラで、私、また写真を撮ろうかな。
さよならのかわりに、私は胸の中で、但馬さんにそう言いました。
放送日:2020年9月29日
出演:松岡未来
脚本:藤田雅史 演出:石附弘子
制作協力:演劇製作集団あんかー・わーくす