幸せの時間
About my mother
「大丈夫? フライト長かったから疲れたろ」
「ううん、平気よこのくらい」
「あ、荷物、私持ちますから」
「大丈夫よ、重くないし。あー、やっぱり日本とは空気が違うわね。暖かいし、南国、って感じ」
「現地のガイドさんがどこかにいるはずなんだけど……」
「あれじゃない?」
「あの人ね、手振ってる。ハロー、 ナイストゥミーチュー」
健康診断で母の身体に腫瘍の影が見つかったのは、去年の秋だった。精密検査の結果、積極的な治療にはもうあまり意味がない、すでにそういう段階に進行していることがわかった。
「それは、手遅れってことですか?」
「この転移の状態は、もう手術で取り切れる段階ではないということです」
「どうしたらいいんでしょうか……」
「まずは、お母さんとよく話し合ってみてください」
そのとき母が選んだのは、入院することでも、家でじっとしていることでもなく、家族みんなで南の島に旅行することだった。
母は若いとき、ある大きな会社の社長と付き合っていた。
でも、その人には奥さんも子どももいた。三十歳を過ぎてその社長さんの子どもを妊娠した母は、大きな決断を迫られた。そして、母は僕を産んだ。
バブルが弾けて会社の経営が苦しくなると、社長さんからの経済的な援助はなくなった。おかげで子ども時代、家は貧乏だった。そのせいで惨めな思いもたくさんした。父親がいない、クラスメイトと少し違う自分が恥ずかしかったし、欲しいものを買ってもらえずにだだをこね、母を泣かせたこともあった。
母はひとりで働きながら僕を育てた。
昼と夜で仕事を掛け持ちして、その間にご飯を作って、家事をして、ずっとその繰り返しだった。息をつく暇もなかったと思う。再婚もしなかった。僕を産んでからというもの、母の人生は苦労しっぱなしで、幸せを感じることなんてなかったのではないか。
だからせめて、人生の最後くらいは、ああ、幸せだなあと感じて欲しい。そう思って、僕らは、
「あのね、私、南の島に一度行ってみたかったの」
と突然言い出した母の願いを叶えることにしたのだ。
思えば、母は旅行だってろくにしたことがない。
今、僕は妻とふたりの子どもを連れて、母と一緒に南の島に来ている。
子どもたちを妻に任せ、僕は母とふたりで、ホテルの敷地にあるビーチを散歩することにした。目の前には、旅行会社のポスターそのまんまみたいな夕焼けが広がっている。
「綺麗ねえ。なんだか心が洗われるわ。身体の中は病気でも、心は綺麗なままでいられそうだわ」
もうすぐ、母とさよならをする日が来る。
最後に、感謝を伝えて、そして何より、謝りたかった。
僕は母のために何もできなかった。いつかたっぷり親孝行をしなくちゃと思っていたのに、毎日仕事に追われて、子育ても大変で。貯金なんかする余裕もなく、この旅費だって半分は母のがん保険でまかなっている。情けない。こんな息子でごめん、どうか許してください。本当は、僕が母さんを幸せにしなくちゃいけなかったのに。結局、何ひとつできなかったよ。
「……ごめんね、母さん」
すると、母はぽかんとした顔で僕をまじまじと見つめ、それから頬笑んで言った。
「何言ってんの。私は大好きな人に出会って、その人の子どもを産んで、その子がこんなに大きくなって、いいお嫁さん見つけて、かわいい孫にも会えて、ずーっとずーっと幸せだったよ。幸せじゃないときなんて、一度もなかったよ。今だって、私はすっごく幸せよ、ありがとう」
放送日:2021年2月2日
出演:相木隆行 佐藤みき 星野あつシ 松岡未来
脚本:藤田雅史 演出:石附弘子
制作協力:演劇製作集団あんかー・わーくす